67 PHOTO

Film Photographer's Website
Photography Index


more...

「揺らぎ」の「絶望」と「やさしさ」

フィルム写真

上の写真は大台ケ原にある「シオカラ谷」撮ったもの。

目当てだった景色は撮りきり、あとは散歩を楽しむようにハイキングコースを歩きます。 足は疲れているにもかかわらず、この「シオカラ谷」を越えると、長い上り坂が続くそうな。 そのため、橋の上で、ちょっとの休憩といいますか、気持を切換えるために足を止めると、両脇にはいい景色が。

そこで撮った写真も、お気に入りの一枚だったりするのです。

写真リンク: Riverbank l 67 PHOTO

つまるところ、自然系の良い景色とは、自然が創りあげた景色であることはもちろんのこと、自然が人間向きにデザインしたような景色のことを指しているのかと。 そこにはテーマやメッセージもないので、アートではなく、単にデザインされた作品と。 この「シオカラ谷」も、自然がデザインした風景だと思うのです。

アートの定義は難しく、考え出すと、その範囲は広くなったり、狭くなったリ。 作者がアートと決めればアートとなるように、閲覧者がアートではないと決めればアートではなくなるのかなと。 それでは、アートではない作品はいったい何者なのかと考えれば、それはきっと、単にデザインされた作品だと。

そう考えれば、「きれい」はもちろんのこと、良し悪しは関係なく、心が動くだけの写真は、アート作品ではなく、デザイン作品なのかと思ってしまいます。

まあ、それでも写真は楽しいですし、むしろアートの定義から来る「縛り」のようなものから解放されるので、 デザインで遊ぶようなスタイルの写真の方が楽しいと思ったりまします。

でも、自分の写真からは「やさしさ」みたいなものをいつも貰っているので、その意味ではアートなのかなと。

人と人との間で起こる問題は、その原因を深く深く考えると、例外なく「仕方ないね」に辿り着きます。 そのときの視点は限りなく客観的なので、自身の主観とは異なるもの。 だから、主観的には「納得できない」も、それも「仕方ないね」の範疇に。それは皆が「人の枠」の中での思考がすべてだと、だれもが概念を疑えないから。 結局のところ、「人の枠」みたいなものから抜出せば、上手くいくことも多いのだけれども、フィードバック的に、パラドックス的に、絶対に人は「人の枠」から抜出せないようになっていると。 客観視すれば仕組みが理解できるものの、どこまでいってもそれが主観に変わることはなく。 そんなところに「絶望」まではいきませんが、後ろ向きな「諦め」を抱いてしまいます。

そんな「人の枠」は、世界の本質といいますか、「万物はゼロに進む」だったり、「全てのものは安定しようとする」だったり、物理法則に則ったもので、 そう考えれば、人と人との間で起こる問題も、その過程で生まれる「揺らぎ」のひとつなのかと。 広義の意味での「自然風景」と同じものかと思うのです。

ぼくの写真は、この世の「揺らぎ」を撮ったもの。

一方では、後ろ向きな「諦め」を抱いてしまうものでも、写真を通して「俺たちそんなに悪くないよ」と、同じ立場で諭してくれる。 そこに「やさしさ」みたいなものを感じているのかもしれません。

ぼくの写真が、ぼくの中では、アートの一面もあるかなと思えるのは、そんな理由があるからです。

このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet


カテゴリ: 写真 | 筆者: kenji  | 投稿日: 2018/05/16

「写真」の他の記事

自己紹介


Blog


人気記事

 
前の記事: 抽象的なアートを写実的に説明できる必要性

Photography Index


more...
Copyright C 2007-. 67 PHOTO.All Rights Reserved.