上の写真は大阪にある「錦織公園」で撮ったもの。
この日は、かばんに多量のモノクロフィルムを詰め込み、ひとりで公園を散歩。
最初から、「変哲もないもの」を撮るつもりだったので、人がいない早朝に訪れたのですが、案外、人が多くて吃驚。
そんなわけで他人の視線が気になりながら、変なカッコで頑張ることに。
そのときの「年季の入った土嚢」の写真もお気に入りだったりします。
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Sandbag l 67 PHOTO
やはり「壊れたもの」には目がいってしまいます。
それが被写体的に「きれいか?」との疑問は置いといて、不思議と人の眼は「壊れたもの」が気になるようにできているのかと。
それは危険回避のためか、それとも正常を求めるためか、どちらにせよ、きっと人が進化で得た「生存を有利にさせる能力」なんだと。
つまり、「壊れたもの」は心を動かす存在。
その意味では、「壊れたもの」も良い被写体なのかと思うのです。
そして、それと対極にあるのが「機能美」。
魅せるためにデザインされたわけでもないのに、人の心を惹きつける「機能美」。
一方、「壊れたものの美しさ」は、「崩壊美」とでも呼びましょうか、それも魅せるためにデザインされたわけでもないのに人の心を刺激します。
「機能美」と「崩壊美」。
両者は対極にある「きれい」なのかも知れませんが、「人の心を刺激する」という意味では近い存在かと。
それらの代表的な被写体といえば、「工場」と「廃墟」。
どちらもメジャーな被写体ですが、それは「普段は目にしないレアな存在」という前提もある「良い被写体」。
でも、日常の生活の中でも「機能美」と「崩壊美」は存在すると。
そんな日常の「機能美」は、写真をやっていなくとも、気が付いている人は多いのですが、
「崩壊美」の方は気付きにくいかと。
そう考えれば、写真をやっていると、「崩壊美」の分だけ日常の風景をより美しく見れているのかと。
ほんと、写真やっててよかったです。
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