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「多様性を認め合う社会」というパラドクス

生物

つまるところ、「多様性は認めない」という考え方もあるわけです。

ですので、「多様性は認めない」という考え方を認めないと「多様性を認め合う社会」は成り立たないのですが、 それを認めてしまうと「多様性を認め合わない社会」も認めることになり、パラドクスに陥るのかなと。

今の時代、「多様性を認め合う社会」というのは社会の理想像として語られることが多いのですが、 それは「世間の普通とは少し違う自分を認めて許してもらえる社会」という意味で使われているのかと。 もしくは「共感し合える社会」と。

ただ、実際の「多様性を認め合う社会」とはパラドクスであるように実現は不可能。 まあ、屁理屈で言葉尻を突っついてるだけかもしれませんが、正確には「多様性を認め合う個人が集まった小さな社会」というのが本来の理想像なのかと。 そう考えると、実現のために変わる必要があるのは「社会」ではなく、ぼくら「個人」なんだと思うのです。

ただ、他人の多様性を認めることは簡単なようで難しい。

つまるところ、他人との関係性を整理すればいいだけな気もするのですが、やはり隣人には興味がいってしまうもの。 その人が自分とは違う考え方も持っていれば、それを否定することで、自分の考え方の正当性の担保としてしまう。 それはもう生物としての「人の性質」だから、我慢することは辛く、 むしろ固有の生存権のようなものだから、我慢しなくても、変わる必要性も、他人の多様性を認める必要もないと考えてしまう。 そうも考えられるので、他人の多様性を認めることは難しいのかなと思ってしまうわけです。

そもそも、「多様性を認め合う社会」というのは、人に優しく温かい社会ではなく、ドライな関係性の上にある殺伐とした社会だと。 否定はせずに肯定はするものの共感はしない。自分に直接的な害が無ければ干渉もしない。 それは多くの人が望んでいる理想の社会像ではないと。きっと、皆が理想としている社会とは「多様性を認め合う社会」ではなく、 その殺伐とした社会の中に浮かぶ「価値観の近い人達で集まった共感し合える小さな社会」なんだろうなと。

でも、もともと国家や会社、組織は、それを目指して作られたもの。 大きな価値観は共有し、小さな個人の多様性にはお互いが干渉しない。そうやって作られたもののはずなのに、 時間と共に、社会の規模が大きくなるに連れて、小さかった隣人の多様性も大きく感じられるようになり「価値観の近い人達で集まった共感し合える小さな社会」も崩壊してしまう。 そう考えると、難しいというよりも、もはや人としての限界なのかと。原因は「人の性質」であって、それに従って生きている人に罪は無いと。

もし、それでも理想の社会にしたいのであれば、その方法は「人の性質」をよく理解することだと。 それに従っても今の時代なら得るものも少ないと、そのことに気付いた人達で社会を作ったら、きっと理想に近づけると。 パラドクスの無い「多様性を認め合う社会」も、小さいながらも構築できるのではと思います。

そんな社会は宗教的なイメージを含ませて想像してしまいますが、そうではないと。 かといって哲学や抽象的な芸術でアプローチできるものでも無いと。もっともっとシンプルに。

きっと、小中学校で習うことの応用が、今の時代には大切なんだと思います。

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カテゴリ: 雑記 | 筆者: kenji  | 投稿日: 2018/03/07

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