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殺してはいけない理由

生物

もし、動物の命の重さのことで悩み苦しんでいるのなら、『考えない』という答えを選んでもいいと思う。

今の時代、医薬品や医療品など、人の健康に関わるものの背景には、その安全性の担保として動物の命が犠牲になっていることが多い。 ペット犬や野良猫の存在の裏側には、殺処分という行末も用意されている。 日々の暮らしの中で食べている肉も、間違いなく生きていた動物の命を頂いたものだ。

現代の人類の暮らしを維持するために、多くの動物が犠牲になっているのは紛れの無い事実だと思う。 そこを深く考えてしまうと、人の欲深さや利己的な部分を強く感じてしまい、自己嫌悪にも落ちてしまう。 ただ、それが普通の考え方を持つ『人』の姿なのかも知れないが、それを踏まえても『考えない』という答えを選んでもいいと思っている。


■ 『人と動物』ではなく『人と人』の問題


人類は命を大切にすることで繁栄してきた。

ダーウィンの淘汰説が真実ならば、命を大切にした個体が生き残ったわけだが、どちらにしろ現代人は多かれ少なかれ、例外はあるものの命は大切にしていると思う。 死なないように行動するのは『ヒトの性質』だとも。 死の危険を察知してその可能性を排除することも、健康に長く生き延びようとすることも、ときには他人を助けることも、全ては命を大切にする『ヒトの性質』の表れだと思う。

そう考えれば命は『大切』なのではなく、『大切にしたい』という人類のおおよその総意が、そこにはあるのかと。 つまり、それは絶対的な価値観ではなく、人類が想い描く相対的な理想の価値観だと。 そして相対的だからこそ、ときには命の大切さを最優先にしないこともある。 人類の暮らしを維持するために、多くの動物が犠牲になっていても『善』とする部分もあるのだろう。

『命は大切』という想いを共有しながら、一方で他の命を消費して繁栄してきた人類。 そこには矛盾も感じてしまう。『命は大切』という想いと並行して、『命は平等』という考え方も人類の共有意識として持っているからだ。 結果として、人はその矛盾を消し去るために、都合の良い理由を探し出すことになる。

矛盾は悪だから無くさなくてはいけない。 そこでの考えの基準となるのは、自らの価値観になることが多い。 ここまでが『善』で、ここからが『悪』と。言ってみれば『都合の良い理由』とは自身の価値感に由来する『善悪の境界線』の明確化なのだ。

例えば食用肉。 ある人は、すべての生物を捕食することは、人という生物として自然なことなので『善』と考えている。 一方で、野生動物を食べることは『悪』で、食用に家畜された動物を食べることは『善』と考える人もいる。 知能の高い動物はダメで、そうではない動物は良いと考える人もいる。 他にも判断材料が『かわいい』とか『人に近い』、『大きさ』、『自分で獲った』『自分で殺した』など、様々な要因で人は自分の中の『善悪の境界線』を作っていく。

そして自身の決めた境界線の正当性を担保するために、他人を、自分とは別の場所に引いた境界線の正当性を主張する人を否定する。 昨今の動物の命に関する問題は、この自身の信じる『善悪の境界線』の正当性を絶対的にするために起きている『人と人』の摩擦と思っている。 決して『人と動物』の間の問題ではない。

それではなぜ、人は自身の正当性を担保するために他人を否定するのか。 考えてみれば、それも『ヒトの性質』の表れだと思う。 きっと、人は『善』の中でしか生きられないのだと。自身は『悪』と、そう思ってい生きていられるほど人は強くないのかも知れない。 そこで生まれる感情は『自尊心』と呼ばれているものに近いと思う。


■ 自身の『善悪の境界線』が争いの元


そして『矛盾は悪だから無くさなくてはいけない』と考えることも、『ヒトの性質』の表れだと思う。

命は尊くない。
悪は無くさなくてもいい。

そんなことを他人から言われれば心はざわつく。 「命は尊いにきまっているだろ!」「悪を認めるなんて人としておかしい!」と反論したくもなる。 ただ、そんな『心のざわつき』こそが、本質的な『ヒトの性質』の表れとだと思う。 そう考えれば、昨今の動物の命に関する問題も、問題ではなく、単に『ヒトの性質』から生まれる『現象』と思えてくる。

『現象』だから、もちろん『答え』はない。 そもそも問題ではないのだから。 それでも答えを決めようとするならば、それは『現象』から生まれた『結果』がそのようなものだと。 つまりその『瞬間の状態』が、それを問題と捉えたときの答えだと思う。

例えば医薬品開発のための実験動物。 人類の都合のために他動物の命を犠牲にすることは『悪』と考える人がいる。 一方で人類の繁栄のために他動物の犠牲は必要で『善』とする人がいる。 そしてその恩恵を受けたいと思っている人もいる。

今現在、多くの規制が設けられて医薬品開発のための実験動物は、法律的に『善』とされている。100歩譲っても『可』だ。 もちろん、その仕組みでは『悪』と考えている人もいる。 ただ、様々な考え方を持つ人達を考慮して作られた仕組みは、今この瞬間では『問題の答え』にはなっている。 多くの人の個々の『善悪の境界線』が考慮されて、社会で共有する『善悪の境界線』が決められているからだ。

極論を言えば『殺人』の善悪も絶対的ではなく、今この瞬間に社会が共有している『善悪の境界線』でその善悪が分かれると思う。 強盗目的の殺人は『悪』で、紛争地での兵士による兵士の殺人は、法律的には『善』とされている。 また、殺人に至った背景によっては『善』とされることもある。正当防衛による殺人も過剰防衛でなければ『善』となる。 本来『自殺』も他人に死を感じさせたことで『悪』となる部分もあると思うが、それ以上に、その人が自殺に至った背景を踏まえれば、誰もが『悪』とは思えにくくなる。

そう考えれば殺人も絶対的な『悪』ではなく、相対的。 つまり、人を殺してはいけない理由があるとするならば、それは『許さない人がいるから』だ。 ただ、その理由も『問題に対しての答え』とした場合のこと。 問題は『現象』であり、答えは『瞬間の状態』であるならば、『なぜ殺してはいけないのか?』という問題も存在せず、もちろん答えもない。 すなわち、今この瞬間に『殺してはいけない』と考える人が大勢いるというだけ、ということ。そういう状態があるだけだと思う。

だから本当は、『殺してはいけない理由』なんてものは、初めから存在しないと思う。

ただ、理由なく何かに従うことは、人にとっては『不安定』なことなのかも知れない。 そこにも『善悪の境界線』があるからだ。『理由なく行動することは悪いこと』と、そう感じる人も多いだろう。

そう考えれば、人が『答えと思えるもの』を追い求めることにも頷ける。 『答え』ではなく、『答えと思るもの』を追い求める。 本質的な『ヒトの性質』に従って、自身の安定の担保となる『善悪の境界線』を、『都合の良い理由』を、『殺してはいけない理由』を、人は追い求める。

例外なく全ての『殺してはいけない理由』は、そんな現象から逆説的に生まれた『虚空の理由』なんだと思う。

■ 優しさの本質


『問題』ではなく『現象』。

そう言われると、やはり心はざわつく。 『人』は自ら考えて行動できる頭が良くて優しい存在なはず。 それなのに、その行動を『現象』で片付けられると、なんだか人は無機質な物体と思われてる気がしてしまう。

ただ、実際の人は無機質な物体に限りなく近い存在だと思う。 『ヒトの性質』に振り回されている無機質な物体。それが人の正体だと。 その性質に目的は無く、ただただ安定に向かうもの。 考えてみれば、それは物理現象の大法則と同じで、逆に世界を構成する一単位として、『ヒト』がその法則に則っていることの方が自然なことなのかも知れない。 つまりその意味では、人と落ちている石ころに差異はないと、無機質な物体だと、そう思う。

ならば『ヒトの性質』に振り回されるのではなく、むしろそれを大切にした方が良いのかも知れない。 ただ、それは欲望や煩悩、性(さが)と呼ばれているもので、 一般的には『人』の醜い部分として語られることも多い。 実際に争いを生んだり他人を傷つけることもあると思う。 それでも、それを大切にした方がいいと思う理由は、それが人の優しさや豊かさ、なにより安定に繋がっていると思うからだ。

『ヒトの性質』に浅く狭く従うと、他人にマイナスの影響を与えやすいが、広く深く従うと自分はもちろんのこと、他人にもプラスの影響がある。 つまり、優しさの本質は自身の安定だと。自身の安定の度合いを広げていくと必ず他人の安定も必要になってくるからだ。 それは『偽善』と呼ばれることもあるが、それこそが優しさの本質であると思う。

例えばバスで足腰の弱い方に席を譲るとき、本心は「俺の視野の中で頑張るなよ!目障りだ!」でいいと思う。 辛い思いをしている大勢の他人を、どれだけ自分のことのように思えるか。 つまり『強い感受性』と『広い視野』を持つ人が優しい人だと。 他人の不安定も自身の不安定の一部と感じてしまう人が優しい人だと思うし、その根本にあるのは『ヒトの性質』であり欲望や煩悩、性だと思う。


■ 『考えない』という選択肢


そう考えても『ヒトの性質』は大切にした方が良い存在だと思う。

たしかに自身の『善と悪の境界線』を主張することも大切だと思う。それが自身の安定に繋がるのならば。 ただ、他人へ過度に干渉することは、大きく見れば自身の不安定へ繋がっていると自覚していたい。 そして、自身の『ヒトの性質』の向かう先が自身の安定である限り、意識的にそれを目的にしてもいいと思う。 つまり、考えることが自身の不安定に繋がるのであれば、あえて『考えない』という選択をしてもいいと。

肉を食べてもいいと。
現代医療の恩恵を受けてもいいと。
目の前だけの動物を救ってもいいと。

『強い感受性』と『広い視野』を手に入れてる人ならば、分かったうえで『考えない』こと選んでもいいと思います。

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カテゴリ: 雑記 | 筆者: kenji  | 投稿日: 2018/01/04

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