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タブーに深く向合うメリット

生物

前職の「実験動物の飼育管理」という仕事は、文字通り「実験に使用する動物を飼育する」ものです。

餌をあげたり、水をあげたり。 糞尿を処理したり、健康観察をしたり。 それは、実験に使用する動物の飼育に限った作業ではないのですが、その注意点は少々特殊だったりします。

動物実験に限らず、科学的な試験で大切なことは「再現性」。 同じ試験をもう一度行えば同じ結果が出ることは重要で、それができないと試験結果の信憑性は疑われてしまいます。 そのため、試験の手順を細かく明確にしておくことに加え、試験で使用する材料の品質も画一的に揃えておく必要があるわけです。

ですので、試験に使用する動物も、個性のない品質に揃えなくてはならないので、餌の量や与える時間、糞尿の処理による飼育スペースの快適度、等々、それらを良し悪しとは別に「揃える」必要があります。 そして、その「揃える」基準なのですが、なるべく「ストレスの無い環境」にすることが標準。 すると、試験の再現性を高めることは、結果として実験動物の愛護や福祉に繋がっていたりもするのです。

ぼくはその業界から離れて少し時間は経っていますが、今の実験動物に対する多くの実験者の考え方はそんな感じだと思います。医薬品および医療品の安全性試験なら尚更。 結局のところ、「実験動物の飼育管理」で戦うべき相手は、動物に感染症を起こさす「微生物」だけではなく、カオスを生み出す「小さな違い」もその対象であり、 それが試験の高い信憑性に繋がっているのですが、同時に動物の愛護や福祉にも繋がっているのです。

もちろん、だからといって動物実験の全てが肯定されるものではないのですが、多くの紳士的な実験者の試験では、その理由でも動物愛護や福祉に最大限で取組まれているのは事実です。

ただ、実験動物の存在は「無い方が良い」というのが、動物実験の推進派と中立派、反対派の共通意識と思われます。 その根本にあるのは、やはり「実験動物は可哀想な存在」という理由があるのかと。 「自」の目的は無く、「他」の目的のために一生を終える。そんな生涯ならいっそうのこと生まれてこない方が良いと、多くの人がそう考えているのかも知れません。

実験用マウスの寿命は約2年半。 ですが、その寿命を全うする者はほとんどいません。 そんな中、試験には使用されず、自然交配の繁殖用に使われる者もいます。 また、試験の内容によっては死や苦痛を受けずに天寿を全うするまで観察される者も。 だからといって、そのような動物たちを「可哀想ではない」と思うわけもなく。 仮に自然界に返しても、近交系数の高い彼らが生き延びる可能性は低いわけで。 そう考えても、やはり実験動物の存在は、「無い方が良い」との答えが最良なのかと思ってしまいます。

逆に、生まれてしまった実験動物の最良の幸せとはどのようなものなのか、そこを考えてしまいます。 「突発的な死に怯えることもなく、小さなストレスからも解放され、天寿をまっとうし、静かな死を迎える」。 それもひとつの「最良」だとは思うのですが、どこか腑に落ちません。 やはり、その文脈で「最良」を考えると、どうしても生涯の「有限性」が強調されてしまいます。 それが実験動物の「最良」を見いだせない理由なのかも知れません。

思えば、ぼくら「ヒト」の幸せも同じな気がします。

「死」に恐怖を覚えて、それに繋がる行動を止めた結果、繁栄してきたご先祖様たち。 彼ら彼女らは行動だけではなく、「死」をイメージすることも放棄し、自身の「永遠」を前提に生活してきたのかも知れません。 もし、その行動や思考を受け継いでいるのであれば、生涯の「有限性」を前提に何かを考えたとしても、どこかに「矛盾」を感じてしまうのかと。どうせ死んでしまうのでそれは無駄だと。 そこに「矛盾」は存在しなくても、それを「矛盾」と捉えてしまうのかも知れません。

ただ、今の時代は昔ほど「死」に恐怖を覚える必要はないと。 「暗闇を恐怖心無く歩いて崖から落ちて死ぬ」というようなリスクに出会う確率も、限りなく小さいと思います。 そんな今の時代に、このヒトの性質は短所なのかも知れません。

自身を守るために存在する「死の恐怖」。 その回避行動はきっと、命の尊さを共有することや、「命を軽視する」という考えの多様性を認めないことなど、そんな社会の普遍的な価値観の構築にも繋がっているのかと。 そして、「ヒトの死亡率は100%」という事実に向き合わないことにも繋がっていると思います。 それがヒトの自尊心の構築にも繋がっているのならば、やはり自尊心を持つことはヒトの繁栄に必要な要素のひとつであり、「生きる目的や意味」を後から付け足したくなることも、「死の回避」の一環なんだと思います。

そもそも、ヒトの存在に目的や意味は無いと思っています。あるとしても種の存続に繋がる多様性の構築の一員くらい。 その賛否は置いといたとしても、ヒトが自身の存在に目的や意味を欲しがるのは事実だと思います。 ですが、その欲求を満たしたところで得られるのはヒトの性質から来る現象の結果のみ。 それも大きく見ればヒトの繁栄に繋がっているので意味のあることだとは思うのですが、現実的には微々たるもので在っても無くても困らないもののレベル。

そう考えれば、今の時代なら「死の恐怖」から来るヒトの性質的な欲求は、ある程度なら無視してもいいと思いますし、そんな欲求を生んでしまう性質を「短所」と思ってしまいます。

結局のところ、「死の回避」に振り回されているのがヒトの本質なのかと。 逆に、そこにさえ気付けばヒトの性質で作られた「枠」から飛び出すことも可能なのかも知れません。 それは、自分なりの「良い暮らし」を見つける上で大切なことだと思います。

多くの人に語られている「暮らし」の定義は分りませんが、それは「生活スタイル」ではなく、「人生の過ごし方」な気もしていましたが、実際のところは「今の過ごし方」なのかも知れません。

「永遠」を諦めた上で今をどう過ごすか?

その答えはきっと、「突発的な死に怯えることもなく、小さなストレスからも解放され、天寿をまっとうし、静かな死を迎える」とは少し違うと思います。

自身の「死」に向合うことは辛く難しいですが、それで得られることもあるかと。 タブーを避けることにもヒトの本質的な利点はあると思うのですが、今の時代ならばタブーに向き合うことの方がメリットは大きいのかも知れません。

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カテゴリ: 雑記 | 筆者: kenji  | 投稿日: 2017/08/07

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