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「仮想」という言葉に感じるモヤモヤ感の正体

原木しいたけ

日本海側が大雪のとき、ここ十勝は青空。

それでも、新得町には山を越えてきた雪雲が、ときおり雪を降らせます。 その降雪は少ないので特に困ることもないのですが、そんな日は決まって強い風が吹き荒れます。 青空なのに地吹雪。道路には吹溜りも。 そして、森や防風林からは轟音が聞こえてきます。

ごぉー、と。

かなり恐怖を覚える音で、住みだして2年近く経った今でも、あまり慣れてなかったりします。 きっと、強い風の日は十勝全体が轟音に包まれているのかと。 そう思ったのですが、考えてみれば人がいないところに音は存在しないので、人口の少ない十勝は、強風の日でも、案外、静かなのかと思い直しました。

椎茸

「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか?」。

その答えが「しない」というのは有名な話。 音は空気の振動を人の耳で捉えられ、脳で変換されることではじめて生まれるものなので、誰もいない森では、空気の振動はあるものの、音は存在しない、ということ。 それは景色も同じで、目で捉えた電磁波を、脳で変換してはじめて見えるもの。そう考えれば、人のいない場所に景色は存在しないと思うのです。

「人がいるところだけに存在する」。

それは少し「仮想」を作り出す考え方に似ていると感じます。 例えば「仮想空間」を作り出すとき、広大な空間を常に存在させておく必要はなく、プレイヤーの周りだけを作り動かせばいい。 「仮想通貨」も、通貨を常に存在させておくのではなく、取引と残高だけをシミュレートすれば、つまり台帳だけを存在させておけばいい。 そんな「仮想」は、システム的に問題が無くても、実態が無くても困ることはないのですが、そこにはモヤモヤ感が残ります。

それはきっと、真実を見分けるために疑いと検証を繰返してしまう「人の性質」から来るものかと。 そう考えれば、疑いと検証を早く回せる若い脳を持つ若者が「仮想」にモヤモヤ感をあまり持たず、 逆に、その能力が衰えたぼくらおじさんが、モヤモヤ感を多く感じてしまうと。

ただ、実態の無い「仮想」は、人によって理解を示せる度合いはあるものの、本質的には疑いをかける存在なのかと。 理解したり、受け入れるということも、はじめは懐疑的だったからこそ。 年齢に関係なく、実態の無いものは、人の本質的な性質によって疑ってしまうと思うのです。

しいたけ

そう考えれば、アナログではないデジタルなものに抱くモヤモヤ感の正体も分かった気がします。

デジタル写真も、見方によっては「仮想」な写真。 以前は、写真と言えば紙にプリントされたもの。 見ていないときでも、ちゃんと存在しています。 一方で、デジタル写真は、人が見るときにだけ姿を現します。 人が見ていないときは2進数の信号のみの姿に。 そう考えれば、デジタル写真も「仮想」な写真なのかと。 写真を作る工程も、アナログのフィルムなら実態があるのですが、全てが信号の処理で進むデジタル写真は、フィルムを基準に考えれば「仮想」と思えます。

音楽もそうで、ここでのアナログは生歌で実態のあるもの。 レコード盤もアナログと言われていますが、その意味では「仮想」。 ですが、レコード盤から音の出る仕組みといえばアナログで、MP3と比べれば、まだまだ実態のあるものかと。テープもしかり。

他にも書籍やコミック。コミュニケーションツール。クルマのスロットル。などなど。 写真だけでなくデジタル技術で「仮想」に置き換えられ、便利になったものは多いのですが、 一方で、老若男女を問わず、アナログ的なものが未だに好まれる背景には、実態の無い「仮想」に対する、人の本質的な性質から来る懐疑性があると思うのです。

そう考えれば、若い人達の間でフィルム写真が流行る理由も分かる気がします。

実態のある安心感。 それは一瞬でも懐疑的になる必要もありません。 フィルム特有の写りや珍しさ、煩わしさ、不便さ。 それもフィルム写真の良いところだとは思うのですが、それ以上に「実態のある安心感」をフィルムからは感じられます。 それがフィルム写真の一番にいいところだと思うのです。

ですので、なんなら現像しなくても価値があるのかと。 撮りきった35mmのパトローネには、現像しなくても価値を感じてしまいます。

参考: 35mmパトローネの「アイテム感」

そんな考えにも行きつくので、年齢に関係なく、人の本質から来る「モヤモヤ感」は大切にした方がいいと。 それを単に人の短所と考えず、欲望や煩悩、性と同様に、きっと人にとっては大切なものだから、 排除するのではなく丁寧に向き合った方がいい。

参考: 殺してはいけない理由

きのこ

それを踏まえて、ちょっと考えると、日々の暮らしの中での「食」にも、「仮想」とはちょっと違いますが、「モヤモヤ感」を感じることはあります。

スーパーで売られている食材も、自分が買うとき以外は、どうなっているのか知らない。 それでも、おおよそは想像できますし、ある程度はスーパーを信頼しているので、気にはならないのですが、それはぼくが若いときからそうだったから。

きっと、人類がはじめて知らない人から食材を買ったとき、そこには「モヤモヤ感」があったと。 歳をとった人は、それを受け入れられなかったと思うのです。

そう考えれば、生産者が何気ない日常の作業を淡々と情報発信することにも意味があるのかと。

つまるところ、フィルムカメラで遊んでみたり、自分で作った野菜で料理を作ってみたり、生産者の背景や日常を知ったり。 「農家」という暮らしを選んでみたり。 人は全て同じ理由でそれらを求めている気がします。

参考: 日々の暮らしの先にあるもの

そう考えると、いろいろなことが繋がりました。 つまるところ、ここら辺の「問い」は、人の本質的な性質を深く理解することに回帰するみたいです。

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カテゴリ: とかち暮らし | 筆者: kenji  | 投稿日: 2018/12/22

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