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「暮らし」の本質

十勝の水道水は冷えています。

それに加えて味?も美味しいので、夏はそのまま頂くこともあるのですが、やはり雪の季節となると、その冷たさは堪えます。 野菜や食器を洗うときは手がかじかみ、朝の洗顔は「さっぱり」の限度を超えて凍りつきそう。

ですので、お湯を利用するのですが、やはり蛇口をひねっても直ぐには出てきてくれず。 そのため、少しの間、冷たい水を垂れ流します。それは北海道に限ったことでもないのですが、そのとき、ふと、あることを思い出してしまいました。

それは、夏の終わりに訪れた「断水生活」。

台風10号がもたらした豪雨の影響で、町内を流れる河川は氾濫し、民家や道路、橋は流されてしまいました。 そして、浄水施設や水道管も被害を受け、約2週間の「断水生活」がはじまったわけです。

町には自衛隊の給水車も来てくれていたので、20Lのポリタンクを2本持参して水を汲みに行くのですが、多いときは日に2回も行っていました。 それでも、使用できる水はかつかつの状態で、お風呂は入らず、洗濯も必要最低限のものだけにし、トイレも複数人で使用した後に流していました。

あれから3か月。 そんな「断水生活」も忘れてしまい、蛇口から出る冷たい水を無駄に垂れ流していました。 おそらく、バケツに貯めておけば、1回分のトイレくらいには使えるはずなのに。

でも、それでいいと思います。

捨てるものを再利用することは環境にも「良いこと」だとは思うのですが、やはりそこには労力が伴います。 そのために人がストレスを抱えてしまうのであれば、それは人にとっては「良いこと」ではないと。

そう考えれば、いわゆる「暮らし」と呼んでいるものは、その人の「生活環境」のことではなく、「心の置き場所や在り方」であり、 「良い暮らし」とは「良い環境で暮らす」ことではなく、「良い心でいられる環境」だと思います。

たしかに、俗世間と離れた自然あふれる場所での生活も、それだけで「良い暮らし」なのかも知れませんが、万人が望む「良い暮らし」ではありません。 人には個性があるので、人の数だけ「良い暮らし」があるのかと。 そうだとすれば、田舎や都会、サラリーマンや自営業、個性的か画一的、それらにかかわらず、その人が良い心で居られる環境こそが「良い暮らし」なのだと思います。

ですので、「良い暮らし」とは、なにも賢人や意識の高い人だけが望むものでもありません。

「食欲、眠欲、性欲」の三大欲求と同列に、人は「良い暮らし」を求めるもの。 それは便利になり過ぎた現在の文明に頼ることなく、以前の「不便さ」を我慢しながら、その人なりの「人らしい生活」を送る、だけではなく、 最先端の文明に浸かりながら、楽で楽しい生活を送ることも「良い暮らし」。 もちろん、その有難さを忘れてはいけませんが、かといって文明を排除した生活が万人の望む「良い暮らし」になるとは思えません。

そして、個性なく、世間に流され、特にやりたいこともなく、平々凡々の生活を送っていたとしても、 それがその人にとって「良い心で居られる環境」なのであれば、それも「良い暮らし」のひとつなのだと思います。

思えば、ぼくだけかも知れませんが、「良い暮らし」を求めるということは、「人の業」や「煩悩」というマイナスの意識から離れることと感じていました。 それを手に入れても、次々に別のものへと欲は移るもので、人は欲深い「悪い生き物」。 文明とはそれの象徴。だから、そこから脱して、人の本来の生活を、「良い暮らし」を手に入れようと。

ですが、それは逆で、「人の業」や「煩悩」という本能に忠実に従うと、人は自然と「良い暮らし」を求めるものなのかも知れません。 おそらく、「人の業」や「煩悩」は、人にとって邪魔な存在なのではなく、むしろ大切で、 それに浅く狭く従うと自分にマイナスとなるのですが、広く深く従えば自分の心を安定に導いてくれる存在なのかと。 そう考えれば、人類が生物的な本能に従い「良い暮らし」を求めることは、しごく自然な流れなのだと思います。

そして、振り返ってみると、「暮らし」をテーマに語る上で、そのスタート地点が「戦後」なことは多い。

たしかに、戦後のものがない状況から、現代のものが溢れている状況への過程は、「暮らし」を語る上で解かりやすい。 ですが、そもそも「暮らし」とは人類にとって欠かせないもので、それは江戸時代、平安時代、縄文時代、それ以前から脈々と受け継がれ構築されたもの。 言語と文字を操れる人類だけが、後世へと正確に伝え、長い年月を掛けて育てあげたものだと思います。

そう考えても、現代人が「良い暮らし」を求めることは自然な流れですし、後世のための義務といいますか、その意味での「現代人の存在目的」だと語っても良いのだと。

ただ、これだけ「もの」が溢れて、生き方も自由に選択できる現代ですと、逆に個人が自分なりの「良い暮らし」を見つけることは難しいと思います。 少し前までは、周りの人と同じもの求めていれば「良い暮らし」を手に入れることが出来ました。 それは戦後の「衣食住」や、高度成長期の「電化製品三種の神器」しかり、ぼくの若い時代の「若者三種の神器」は携帯電話、パソコン、クルマでした。

ただ、それは「良い暮らし」に求めるレベルが低かったから成り立つこと。 さらに高いレベルの「良い暮らし」を求めるしかない現代人は、周りの人と同じものを求めても、自分に合う「良い暮らし」には、なかなか辿り着けないと思います。

それを見つけるには、やはり自分や他人の持つ「業」や「煩悩」に向き合う必要があるのかも知れません。 そして、その方法は、一度その大切なものを捨ててみることが必要なのかと。 失わないと大切さは分らないと言いますし。

そう考えれば、あの「断水生活」も少しの意味はあったのかと、そう思っておきたいです。

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カテゴリ: とかち暮らし | 筆者: kenji | 投稿日: 2016/11/12

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